■風間旅人随想

むかし、『欽ドン!良い子悪い子普通の子』というテレビ番組があった。ともすれば善悪で決着したがる世相の中で、私は普通という感覚に惹かれていた。普通の子が好きだった。

ウソをついて良いのか、それとも悪いのか。私にとって、結構重大な課題だった。子どもの頃、「宿題済んだ」とウソをつかなければ、友だちと遊びに行けなかったし、ウソをついて良いのか、悪いのかはしょっちゅう判断が付かないでいた。人をおとしめるウソは絶対にいけない、とわかるのだが。

事業で、田んぼをつくることになって、あぜの草刈りをどうするかが問題になる。「美しい田んぼ」をつくろうと決めて農業事業に乗り出したからだ。美しい田んぼはあぜの草刈りが決め手になる。草刈りが行き届いている田んぼは遠目に見ても美しい。

しかし、草刈りをしなくても田んぼの稲は生長する。見た目はどうであっても稲は大きくなる。それに、草刈り作業は重労働で結構たいへんだ。

田んぼのあぜの草刈りはしたほうが良いか、しなくても良いか。両論あると思うが、私は、美しい田んぼ=草刈りの行き届いたあぜ、だと思っている。そう思っているから、スタッフ総出で朝早くから草刈りをする。草刈り機があちらこちらでうなっている。

田んぼのあぜが草ぼうぼうか、きれいさっぱり、か。どっちが良くてどっちが悪いか。

美しい田んぼが良い。気持ちが良い。うちが耕作している田んぼは見渡す限り美しいほうがよい。田んぼは美しいのが「普通」なのだ。

国道沿いの草刈り、安全地帯の草刈り。いつの頃か放置されて、草は伸び放題になっている。かつてあんなに整備されていたのに、税金の無駄遣いとかで、政治的にやめになったらしい。

国道沿いも、美しい田んぼ同様に、美しい国道沿いが良い。美しい田んぼも美しい国道沿いも、それが「普通」なのだと思うのだが。それが普通感覚だと思うのだが。
(西)